ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

親方がやってきた ヤァ!ヤァ!ヤァ!

ワイ子です。『トーク・ライブ&ラーニング・バーinぷらほ vol.4』が開催されました! 今回のゲストは、某公共放送・山形局の柴田徹さん、またの名を柴田親方です!! 
さすが親方はファンも多く、今回の交流会参加者は38名でした。
ということで、17時になり、第1部のトーク・ライブスタートです(聞き手は愛さん)。
「身内のなかの雑談のような形でなら」とトークゲストに来てくれた柴田さん。「真面目でねくて、ギリギリのところを歩いてきた」けど、「これやったら楽しいんじゃないか」と動き続けたら、人の輪が広がり、そして新たな発想をもらったという、これまでのご活躍のお話を聴かせてもらいました。

某公共放送・山形地区にて不定期放送中の『今夜もなまらナイト』は、ラジオ、テレビ、1000人来場イベント、と発展していったローカル番組。この展開は当初から想定していたわけではなく、手を伸ばしたら可能性が広がったもの。完成形は求めずに気楽にやれたら、と考えているそうです。そして番組コンセプトで大事にしている点は2つあって、まず1つは「山形の人間が集まって、地元の言葉(感情を表現できる言葉)で、一つのテーマをバカくさくやる」こと、そして2つめは「精神、スピリット」。これでもって、自分の育った場所を遠慮なしに笑いもいれて語るのが『なまらナイト』なのです。



さて、『なまらナイト』を始めた柴田徹さんは、生粋の山形人(※高校まで山形在住)で初めて某公共放送のアナウンサーに採用された方です。その採用から山形へ戻ってくるまでの遍歴も聴きました。
入社は平成2年。当時、アナウンサーという職業は「原稿読みだけでなく、取材も原稿書きも自分で足を運び手を動かす」である、と教えられる時代でした。やがて決まった初めての配属先は青森局。スポーツキャスターを希望して、甲子園の実況などを任されます。
その後仙台、神戸、名古屋と異動をし、各局でもスポーツキャスターを務めあげます。名キャスターとして期待されました、が、名古屋である試練が訪れます(柴田さん:「まあ今やってない時点で結果はお分かりでしょうけど(笑)」)。その後東京へ転勤になりますが、配属されたのはテレビではなくラジオのスポーツキャスターでした。
そして2006年6月(37、8歳ごろ)、山形局にアナウンサー部副部長として配属されます。年齢的に、現場側でなく管理職になるのはある意味当然なことでした。しかし、現場からいきなりの管理職になったため(普通はもう少し段階がある)、どうしても現場感覚が抜けない。地方局の若手キャスターやスタッフに目をやると、「いつか東京に行けりゃいいや」という空気があり、柴田さんは、番組づくりにもそれが表れている気がしてなりませんでした。でも、東京も地方も視聴者は同じ受信料を払っているのだから、「一番面白い番組が山形で見れる」と思わせたい。そして「自分が動いて背中を見せねば」と感じたそうです。


ではどんな番組にするか? 以前から、飲み会の場などで盛り上がるネタは「山形の方言&TVのローカルCMの話」(ぷらほでもよく話題になります。「米沢の漢方」とか)。青森では津軽弁番組があったり、東京ではトークライブイベントがあることから、「これをかけ合わせてできないだろうか」と考えました。
そして2006年に、とある番組で、現レギュラー陣のお一人・あべ美佳さんがゲスト出演。そのときにあべさんが「NHKキャスターなのに訛ってるよね」と女将役の藤田千枝さんを話題に出したことで大盛り上がり。「やってみるか!」となる。また、東京時代にテツandトモのトモさんと「いつか共演したいね」と口約束(?)していたのを、「あのとき言ったよね?( ゚∀゚)」と引っ張り出し、「なまらナイターズ」が揃います。こうして2007年、ラジオの単発番組で『今夜もなまらナイト』が始まったのでした。
とにかく最初から最後まで、方言で「オレたちの町をどう思ってんだ?」と不満やら、(ときには)良いところやらをしゃべる。そんな内容で、リスナーから来たメール&FAXは、なんと100通以上! その前にあったある国際競技の特番じゃ2通しか来なかったとかで、そのギャップに「どうなってんだ?」とビックリ。大好評につき、その後まさかの第2回目、そしてテレビ放送とつづいていったはご存知のとおりです。



話はぷらほとつながったきっかけになり、そこから2010年に『ワンダフル東北』で取材に来てくれた佐々生アナウンサー(現在北海道・札幌局)話へとなりました。柴田さんは「キャスター一人ひとりが関係を構築していかないといけない」と考え、佐々生さんをぷらほへ修行に出したと言います。その結果、取材対象である愛さんから「佐々生くんはぷらほの何を撮りたいの?」びだびだにされたわけですが(;^ω^) とにかく、柴田さんは「原稿を読むだけがアナウンサーではない」という精神を継承しようとしたわけです。
柴田さんは、ぷらほ10周年パーティーのスピーチで、「お前ら(共同代表)はもう”若者”でねんだがら、積み上げたものを次世代に渡してげ!」と話してくれていました。その真意は、カリスマが死ぬと「精神」も全てなくなるのはどうなのか、時代によって形態は変えても「精神」は継承していかないといけない、という想いからでした。

愛さんが「柴田さんが上の世代から受け取ったものって?」と質問すると、「山形弁。言葉は、絶対誰かから伝わったものなんですよ」と柴田さん。柴田さんは中・高校生時代、諸々の事情で両親と離れ、お祖母さんと二人暮らししてました。そんな時期に親が近くにいなかったので、それはもう羽を伸ばしてるのではと危惧したお母さんが時どき様子を見に来ては、お祖母さんと子育てのことで口論してたとか。しかしお祖母さんは、「ほだな、やろこなどままさえ食わしとけばなんとがなんだ!(そんなの、男の子はご飯さえ食べさせておけばなんとかなるんだ)」と一蹴。そのある種の大らかさが、柴田さんにとっては救いになったのだそうです。「祖母の考え方、育て方で救われる人がいるのなら、継承していきたい」と語る柴田さんでした。


そんな感じで、裏話もふくめていろいろ聴かせてもらいましたが、そろそろ皆さんのお腹も空く時間になってきたので、第1部はここまで!

第2部・交流会のセッティングを速やかに済ませ、それぞれ天然冷蔵庫(※屋外)から飲み物を持ってきて、前回のトークゲストであるI十嵐さんの音頭で乾杯です。
ということでカンパーイ!!


やんややんや!
おいしいもの食べて飲んでをしばししたあとは、恒例の自己紹介タイムです! 柴田さん&なまらナイト大ファンの方、ぷらほ交流会初参加の方、歴代トークゲストの方々が、トークを聴いての感想や地元の言葉についてなんかも添えながら紹介していきます。
一周して、最後はもちろん柴田さん。参加者の皆さんの声を聞いて思い出した話を語ってくれました。

どんな話だったかは参加した人だけの特権ですYO!

SOMEDAY

SOMEDAY

ちなみに語ってるときのBGMはこちら↑でした。


そして再び飲み食いでワイワイ盛り上がり、いろんな人が交流してました。



そんな感じで、交流会は深夜まで続いたのでした!