ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

違和感の言語化

滝口です。

最近よく自分の書いたものに関して「むずかしい」とか「わかりにくい」とかいうお褒めの言葉をいただきます。心優しい皆さんに一言申し上げたい。書店ではカレーの注文はよしたほうがいい。それは野暮というもの。今後そういった事態を避けるため、なぜ私があえてそうした硬質な文体を選択しているのかについて、書いてみたいと思います。

「むずかしい」とか「わかりにくい」とか言われるたび私は思います。「当たり前だ」と。だって、そうでしょ? こちら側が相応のコストをかけて構築した何かが、それに見合ったコストを支払っていない誰かに安易に「わかられて」しまうなんてことありえませんから。だから「わからない」のは当たり前です。単にそれは、かけたコストの差にすぎません。

こんなことを言うと、「それじゃおまえはそのメッセージを読み手に伝えたくはないのか」なんて小一時間問い詰められそうです。いや、そりゃ当然、伝えたいですよ。でも、私たちは、互いにわかりあうことなんて絶対に不可能な「他者」同士です。「伝えたい/わかりたい」ということと「伝えられる/わかる」ということは別だと考えるべきです。

簡単には伝わらないからこそ、腰を据える必要があります。不快な「他者」と同じ時間を共有し続ける覚悟が必要です。そしてそれを共有したいと思う相手側の動機づけを調達する必要があります。私があえて「わかりにくい」メッセージを送信し続けることで、読み手や受け手の側に惹起したいものは、まさにそうした動機づけなのです。

人は決して「わかりやすく」て「簡単な」ものに動機づけられるわけではありません。あってもそれは短期的なもの。むしろ逆に、人は「わけのわからないもの」にこそ関心を抱き、それを知ろうとするものでしょう。「わからない」からこそ、その意味の空白を「言語」という過剰で埋め尽くそうとするわけです。「わからない」からこそ、面白いのですよ。

そう考えるなら、「わかりにくい」というメッセージは、「だからその部分をもっと話してくれ」とか「次はもっとわかりやすく書いてくれ」というコミュニケーション継続希望の意思表示であると捉えることができるのではないでしょうか。とすれば、私のねらい――コミュニケーション継続への動機づけ――は達成されていることになりますね。

はっきり言ってしまえば、私は、自分が書いた文章の「意味」なんて実はどうでもいいんです。自分だけが正しいなんて思っていないし、誰かにそれを正しく理解してもらえるなんてはじめから期待していませんから。でも私は、自分の文章にこめた「強度」――そこにこめた怒りや怨念や悔しさややりきれなさ、そして希望――には、多くを期待しています。

そうした思いの「強度」が、偶然それに触れた誰かの内部で化学反応を起こし、そこから何かが始まっていくこと。「強度」の連鎖反応。端的に言って「強度」は思想信条の差異を超えます。思想や立場上の「敵」であっても、私たちはその人の「強度」に打たれ、感応してしまうということがありえます。だとしたら、そのしくみを利用しない手はありません。

上記の理由から、私は、今後ともある種の「確信犯」として難解な語彙とロジックで、自分の思想や立ち位置を語り続けていくつもりです。精一杯の過剰さと強度と濃度とをそこに込めながら。そりゃもう4年分くらいの濃さですよ、ええ!