ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

「賢さ」とは何か。


ふたたび滝口です。

更新のないブログなんてトルテのない日曜日みたいなものですので、恐縮ですが、連続投稿させていただきたいと思います。さて先日、久しぶりの休みだったので、大学時代の恩師に会いに、研究室にお邪魔してきました。そこで、次のようなことを聞かれました。つまり、「地頭のよさ(=学歴や学業成績によらない賢さ)って、キミならどう言語化する?」と。

何でも我がお師匠は、学生の就職支援のお仕事に携わっておられるとか。就職先企業の人事担当が学生に求める(べき)ものは何か的な観点から、実社会で生きていく力を、大学教育において体得可能な知との関連で定義可能かどうか、可能だとすればそれを大学での教育実践においてどう関連させるか、その理路を探っておいでなのかなと思いました。

先生にお話した私なりの定義は次のようなものです。「学校歴や学業成績によらない賢さ」とは、文脈を読むことができる力、すなわち文脈読解力である、と。これは、もっと具体的に記述するなら、次のように書き表すことができるでしょう。

現在自分が置かれている人間関係上の状況や立ち位置や社会的な文脈がどういうもので、そのなかでとりあえず期待され要請されている役割がどういうもので、それを外したとき/応じたときに自分を取り巻く社会的なシステムがどのように作動するか等々といったことを(意識的にせよ無意識的にせよ)事前に読解し、想像することができるということ。

これは、人々の欲望のありかたとはどのようであるか、そしてそれに基づく人々の行為が、さらにはそれらの集積体である社会システムがどのように回っているのかについての洞察力とも言い換え可能です。欲望の文脈を読む力。このことは、我らが消費資本主義が人々の「欲望」をエサに回るシステムである以上、自明といえば自明でしょう。

人々の欲望の文脈を読解できればこそ、その流れに棹差すことも、あるいはそこから身を引き剥がしたり、それに逆らって進むことも可能になります。「敵」/「味方」が誰なのかがわからなければ、私たちは「それ」と戦うことさえできません。現実と対峙し格闘することができなければ、私たちは「自分自身の人生の主人公」であることさえできない。

短いながらも、NPOや市民活動の現場で活動してきて、私は上記のような「欲望の文脈の読解能力」をもち、それを巧みに使いこなしている素敵な人々をたくさん目にしてきました。それぞれ多様な背景や経歴をもった方々ばかりなので、そうした読解能力をどこで、どんな方法で体得したのか、残念ながら一概にまとめることはできません。

先生は、最後にこう仰いました。「キミ、その能力は先天的なものなのかね、それとも後天的に獲得できるものなのかね」と。まだまだ思いつきの域を出ない話題ゆえ、「賢さが生成する条件」の定式化はムリですが、それでも私は次のように思います。それは、後天的に獲得可能であると。

もちろんこれは「信仰告白」です。でも、そうした確信を前提に、私は現在の活動を遂行しているわけだし、そもそも「教育」という思想は、そうした前提を無意識に下敷きにしています。人間(そして社会)はどんなふうにでも変わっていける――この確信を、私たちがより幸福に生きていくために利用可能な幻想として、今後とも有効活用していくつもりです。