ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

「自分の意見を述べること」への訓練


愛ぼんです。

先日、友人Aさんと話をしたときのこと。彼女が非常に興味深いことを言っていたので書いてみたいと思う。

話を聞くと、Aさんの職場の部下が、自分の意見をはっきり言わない(または持たない)ことについて、彼女は煮え切らない思いを抱えているようだった。「正しいとか正しくないとか、そういう次元ではなく、“私はこう思う”という意見が聞きたい」と彼女は言う。例えば花を見た時、「これは八重咲きの水仙ですね」とか「このカタクリユリ科でしたっけ?」などという専門的な意見を言えと言っている訳ではなく、「黄色い」とか「赤い」とか、または「小さい」「大きい」など、その人が感じたことで充分だ、とにかく自分が感じたことを言って欲しい、とも話していた。

何か自分の意見を言わなければならないときに、どうしても「みんなが納得するようなことを言わなきゃ!」とか「こんなことを言ったらバカにされるだろうか…」などと考えてしまい、なかなか発言できない、そんな体験は誰でも1度や2度あるだろう。しかしくだんの彼女は「内容うんぬんではなく、自分が感じたことを言葉にして欲しい」と言う。簡単な事のようで難しいことである。

私は、「自分の意見を言う」ということには、ある程度の訓練が不可欠であろうと常々考えている。訓練などというと、なんだか大層なことのように聞こえるかもしれないが、例えば日常的に「ディベートの機会を設ける」とか「何かに対して自分なりの意見を組み立てる」という程度のことでよい。こういった些細な事をおろそかにしていると、「何を見ても無関心、何を聞いても無感動」という人間なんて簡単に出来上がっちゃうのだ。そしてそんな状態に陥ってしまった彼らに、突然自分の意見を言えと迫ったって無理である。

「子どもには、のびのびとできる自由な空間を与えるだけで豊かな人間性を育むことができる」というような、聞こえのいい言葉を述べる方々もいるようだが、何事もコストが必要なのですよ。なので私も滝口氏の難しい文章をさらりと読みこなせるようコストをかけてみようと思います。もちろん、ガリガリとお勉強するわけではなく、「滝口氏が簡単な文章を書きたくなるように仕向けること」に対してコストをかけるのです。嘘だけど。