ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

「カウンターをあてる」とはどういうことか。


滝口です。

「「簡単な文章を書きたくなるように仕向けること」に対してコストをかける」。すばらしいですね。「簡単に書いてほしい相手」に対して、「簡単に書け」なんて言葉を吐いたって書いてもらえるわけがない。どうしたらその相手をそう「仕向ける」べく動機づけることができるか――まさにそのあたりが、ぷらほスタッフの面目躍如ですね。健闘を祈ります。

さて今回は、私たちスタッフがよく口にする言葉、「カウンターをあてる」ということについて書いてみたいと思います。

いろんなところで語ってきているように、私たちぷらっとほーむでは、指導や治療や支援を目的としておりません。私たちの目指す居場所のモデルは、学校でも病院でも施設でもなく、喫茶店――多様な人たちが集う街の喫茶店――です。であれば当然、そこには、指導や治療や支援の目標となるような、「理想の人間像」は存在しません。

あくまで、利用者には、「喫茶店」という多様な人々の集まる場において守られるべきマナーの遵守(相手のプライバシーに土足で踏み込んじゃいけませんとか、自分だけで場を独占利用してはいけませんとか)が求められるのみで、それ以上の何か――例えば、「自立」とか「自主性」とか「協調性」とかいった諸々の「教育的」価値――は求められていません。

こう言うと、それじゃおまいらの居場所では「何でもあり」なのかよとツコーミなさる方もおられるやもしれません。なるほど、確かに私たちは誰しもが不完全な人間。教育的な契機がなければ、私たちのちっぽけで視野の狭い脳みそは、たちまちのうちに無神経で無作法で想像力の欠如した立ち位置(平たく言うと「バカ」)へと私たちを押しやってしまうでしょう。私たちがそれを望まなかったとしても、です。

ではどうするか。たどり着くべき「理想像」を設定し、そこへ向けて私たちを規律づけようとする「教育的」なまなざしを回避しつつ、かといって視野狭窄や思考停止に陥ることなく、「バカ」から脱却するためにはどうすればよいのか。そのために、私たちが採用しているのが「カウンターをあてる」という行為なのです。

誰かが「○○は最悪だね」的な台詞を口にしたとしましょう。それが、喫茶店的な多様性原則に抵触するものと考えられるような場合には、私たちスタッフがそれに対して、「『「○○は最悪だ』というのはあなた個人の見解ですね」とか「『「○○は最高だ』という意見もあるね」とかいった相対化を行います。これが、私たちのいう「カウンター」です。

相手の価値に対する評価そのものは留保しつつ、別の角度からその価値に疑問符を投げかけること。これは、ぷらっとほーむの考える「正しさ」を押し付けることとは違います。もちろんスタッフにも、個人的な「趣味」や「好み」はあります。しかし、それらを居場所の利用者に理解してもらおうとか、伝えたいとか、そういうことをしたいわけではありません。

誰かに実害が及ばない限り、誰しも自らの「趣味」「好み」を追求する自由があります。たとえそれがどんなに悪趣味だったとしてもです。私たちスタッフは、その「内容」に不用意に立ち入ってしまわぬよう、意識的な禁欲を自らに課しているのです。なぜか。その意識がないと、私たちは容易に「善意」の権力/暴力に加担してしまいがちだからです。

ただし、他者との対話を欠いた思考は独りよがりなものになってしまいがちですし、そうした「青春の独り相撲」は人を容易に視野狭窄と思考停止(要するに「バカ」)へと導きがちです。「バカ」は社会的にも危険です。「バカ」は自らがそうであると自覚していないので、自分たちの首を確実に締めるであろう決定をも嬉々として選択したりします。

そうした「バカへの道」を回避するために、私たちは、(多様性原則を無意識に侵害するような)視野狭窄や思考停止の兆候が見える度ごとに、その場面にさりげなく介入し、「カウンターをあてる」わけです。現前しているような価値やありかたとは「別の価値やありかた」をその場に対置することで、現実の多様性を改めて意識してもらうわけです。

私たちは、いろんな役割の間をいったりきたりしながら生きている社会的な存在です。でも、あまりに忙しかったり、特定の役割との相性が良かったりすると、ついついそれ以外の多様な役割や立ち位置や価値が存在しているのだという当たり前の事実を忘れてしまいがちです。だからこそ、多様さへの想像力を失わないような工夫が必要なのだと思います。