ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

自らの動機をどう調達するか。


滝口です。

本日、無事に「05年度 総会」が終了。ぷらほの今後の活動において「大事にしていきたいところ/別にあまり気にしないところ」の線をどこに引くかということについて、スタッフ間での合意形成(への第一歩)を試みました。微調整や葛藤や逡巡や悩殺ポーズなど、紆余曲折はあるでしょうが、とりあえず「第二局面スタート」といった感じです。

さて、今回は再び「動機づけ」について書いてみたいと思います。とは言っても「利用者をいかに動機づけるか」なんてことを記述したいわけではありません。そんなことは端的に不可能。私たちスタッフ側にできるのは「環境管理」のみですから。それはさておき、記述してみたいのは、自分たち「スタッフ」自身の「動機づけ」についてなのです。

ぷらほで居場所づくりの活動を始めて三年目。それなりにいろんな難局を越えつつ、現在に至るわけですが、改めて振り返ると、私たちに固有の難局というものが見えてきます。何だと思いますか? NPOにある程度詳しい方なら「財政難」なんて答えが返ってくるかもしれません。居場所に詳しい方なら「利用者減」などを思い浮かべるかもしれません。

しかし、残念ながら私が言いたいのは、そのどちらでもありません。「財政再建」も「利用者増」も、それらの課題の喫緊性と重要性に関する認識をスタッフ間で共有でき、その解決に向けた合意形成へと自らを動機づけられるだけの「何か」があれば、ともに大したことではない、達成可能な課題に過ぎません。傲慢かもしれませんが、事実です。

むしろ問題は、私たち自身を突き動かす「何か」が枯渇してしまうことです。「私たちはどこへだって行けるのです、その意志さえあれば」とは、批判的知識人N.チョムスキーの言葉ですが、そうであれば、まさにその「意志」、私たちの言葉で言えば「動機」や「欲望」の「枯渇」こそが、活動にとってのリスクであり、そのリスクの縮減装置が必要なのです。

どうすれば、自らを突き動かす「意志」を、そしてそれを支える「欲望」や「動機」を、安定的に/長期的に確保することができるのでしょうか。ここでもやはり、想起してほしいのは、「環境管理」という発想です。個人の内面である「動機」への直接的な照準は、禁欲の対象でした。この原則は、当然、スタッフ自身の「動機づけ」に関しても適用可能です。

つまり、「スタッフ自身の動機づけ」を達成したいのであれば、「気づかぬうちに自らの動機を発見・回復してしまえるような、温床的な環境条件の管理・整備」を行う必要があるということになります。自分でも無意識に「欲望」を発見したり回復したりしてしまえるような「文脈」とは何か。それは、「他者」からの「緩やかな刺激」ではないかと思います。

とすれば必要なのは、そうした「他者」との遭遇機会や「緩やかな刺激」にさらされる局面を構造的に保障してくれるようなシステムを、自らの立ち位置をも繰り込んだ上で、構築していくことではないのでしょうか。何らかの「刺激」を受けたなら、それを受けた私たちの側には、それに対して「返答」せずにはいられないという「互酬性」の習性があります。

だとすれば、そうした「互酬性」のメカニズムをうまく活用して、自分自身の「動機づけ」のための環境装置として利用してしまえばよいのです。その意味では、ここで今行われている「ふたりあそび」も、これから始めようとしている「読書会」も、全ては「他者」に遭遇せざるを得ない場所、応答せざるを得ない立ち位置に自らを置くための所作なのです。


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