ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

「存在しているが存在していないものたち」を存在させるために。


滝口です。

連休モードでサボっていたら、あっという間に5月も中旬。そろそろネジを巻き直していきたいと思います。

さて、前回の愛さんの投稿は、「カウンターを当てる」ことと機能的に等価な振る舞いを鴻上尚史氏の言動のうちに見たというものでした。「カウンターを当てる」なんていうと何だか大仰な物言いなので、ついつい「自分たちの日常とは無関連な、専門的で小難しい」何かみたいに捉えられがちです。しかし、決してそんなことはありません。それは――愛さんが極めて適切に記述してくれたように――私たちの日常のごくごくありふれた一部だったりします。

例えば、最近ブームだと言われる「お笑い」。「お笑い」では、ある者の「ボケ」に別の者が「ツッコミ」をいれることで、観客の笑いを誘います。『反社会学講座』の著者パオロ・マッツァリーノは、この「ツッコミ」こそ、あるものの見方の論理的な飛躍やズレに対して、タイミングよく焦点を当て、そのズレそのものを可視化する方法――しかもそれを笑いにかえてしまえるので、批判や非難のように角が立たない有効な方法――だと喝破しました。これは、私たちの「カウンターを当てる」と似た領域について言及するものです。

このように、「カウンターを当てる」という振る舞いの型は、私たちの日常にもごくごく普通に遍在しています。では、いったいなぜ私たちは自分たちの周りにあふれているはずの、周知であるはずの行為様式について、こんなにも「無知」なのでしょうか。言われてみれば「ああそうだよな」と納得できることなのに、なぜそう言われるまで、そのことに気づけないのでしょうか。私の見るところ、このことは、そのことをうまく言い表す「言葉」が存在しないことに起因しています。

どんなに「それ」が私たちの周囲にあふれていたとしても、私たちの側に「それ」を「それ」として名指すための装置(語彙)がなければ、私たちはその存在に気づくことができません。差異を記述する「言葉」がなければ、私たちはテクストとコンテクストとを分離することができないのです。そう、欠如しているのはまさにこの「言葉」。私たちの振る舞いの型が貧窮化しているわけでも、多様性が縮減しているわけでもない。ただ、「それ」を名指すリアルな「語彙」が欠けているのです。だからベタ化しているように見えてしまう。

もちろん「現実」なんてものは、そうした「語彙」を通じて社会的に構築されるもの。したがって、「語彙」が貧窮であれば、そうした貧窮に即応する形で、振る舞いの型の多様性などあっという間に縮減していってしまうでしょう。ベタなるものの一元化状況。そうしたものを避けるために、私たちは、まずこの「言語」や「語彙」の豊穣さ(を通じた「現実」の豊穣さ)を確保していかなくてはなりません。今はまだかろうじて私たちの周囲にある振る舞いの豊かさを、適切な形で「記述」し「記録」していく必要があるのです。

居場所論の記述にあたって、私はよく、さも自分のオリジナルであるかのように記述していますが、その大半は、既にある何かを記述しようという試みにすぎません。「カウンターを当てる」も然り。しかし、残念ながらそれらはまだ自らが身にまとうべき「言葉」をもっていない。語られていないものは、存在していないも同然です。だからこそ、私たちはまずは「語り」でもって、「存在しているが、存在していないものたち」の言語化に取り組まなくてはなりません。ということで、これからはあまりサボらずに更新したいと思います。


反社会学講座

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