ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

明日できることは明日やる、今日できることも明日やるということ。


滝口です。

お久しぶりでございます。愛さんも述べているように、「明日できることは明日やろう、今日やれることも明日やろう。つーか本当にそれってやる必要があるのかしら。え、やる必然性なし? だったらやめちゃおうよ」というのが、私たちぷらっとほーむの理念つーか思考回路でございます。それに忠実に「ブログ更新は本当に必要か」とか熟慮していたら10日も間が開いてしまったわけです。うそ。

さて、気がつけば、世間は五月病アウトブレイクらしく、友人の職場でもそのあたりが原因らしい「失踪」事件が発生したとのこと。当初は職場の同僚が総出で街中を捜索したものの行方はわからず、仕方なく警察の手を借りて何とか無事にその人を「保護」したそうです。「凄まじい仕事量+そのストレス+それらを解消しようという自覚や時間や機会の欠如」などがその人を追い詰めたのではないか、との推測が、同僚の間で為されたそうです。

行為の理由なんて、結局のところ本人にしかわかりえないものですし、本人にすらわからないことだってあるわけですが、とりあえず上記の「理由」を受け容れた場合、それが自分の職場だったとしたら、そこでなすべき「対処」とはいったい何でしょうか。メンタルヘルスに関してある程度の知識や意識がある人であれば、そうしたストレス解消のための制度的/非制度的対策(カウンセラーとか、愚痴の機会とか)が必要だと考えるかもしれません。

しかし、私が思うに、そうした「心のケア」や「承認の供給」は副次的なもの。まずは、そうしたストレスを生み出すもととなる過重労働こそが問題です。とすれば必要なのは、まず第一に、個人に殺人的なハードワークを強いる労働分配構造を見直すこと。それが本当に必要な労働なのか、本当にその人が、その時点でしなければならない労働なのか、等など。そうしたハード面での分配の問題がクリアできた上でようやく、メンタルケアについて語りうるのです。

この順番(①労働分配構造の見直し→②メンタルケア)が、実は非常に重要であると私は見ています。どういうことか。メンタルケアを優先した場合、たとえ一時的にメンタルに回復できたとしても、過剰な労働分配構造はそのままで放置されているわけですから、またもとの殺人的な労働環境でボロボロに疲弊→メンタルケア→殺人的疲弊……の繰り返しにしかならない。つまり、こころ優先の対処とは、過労死/過労自殺を誘発するような劣悪な環境の温存への加担を意味します。だからこそ、まずは制度や環境への手当てが必要なのです。

労働経済学者・玄田有史が『仕事のなかの曖昧な不安』で述べているように、不況下でリストラが常態化した職場の若年正社員たちは、従来通りの量の仕事を、従来よりも少ない人数でこなさなければならず、しかも新規採用が冷え込んでいるため、後輩を当てにすることもできません。年功序列のベルトコンベアーの流れのなか、今までやってきた仕事を卒業できないまま、年齢相応の新しい仕事が次々と降りてくる。これが、若年世代の正規雇用の人々が置かれた状況です。こんな労働分配構造のもとでは、「疲弊するな」という方がムリというものです。

ではどうするか。どうするって言っても、仕事の分配の大枠に関しては、決定権があるのはその職場の上司(管理職)だろうから、若年の平社員にできることは(制度設計の段階では)ありません。彼(女)にできるのは、とりあえずは「サボること」のみ。「サボり」には、意識的で意図的なそれもあれば、自覚なき、意識なき「サボり」(例えば「病気になる」こと)もあります。「サボりのすすめ」などと言うと、倫理的に批判を受けそうですが、①締切ギリギリのほうが仕事に集中できてはかどる、②本当に必要な仕事/そうでもない仕事の区別がつけられるようになる、などの利点もあります。いずれにせよ、鍵を握っているのは、管理職の意識です。

さて、友人の職場の上司は、今回の「事件」を受けて次のように語ったそうです。いわく、「これからは、いつ誰が「失踪」してもすぐ見つけられるように、社員全員に、そのときの位置情報を把握できるGPS装備を携帯させるといいんじゃないか」と。つまりこれっていうのは、「ストレスが特定個人に過剰に蓄積しないように」ではないし、「突然社員が失踪しないように」ですらない。「失踪してもすぐ連れ戻せるように」という、監視社会的な要請なわけですね。つーか、その発想って奴隷主のそれとどう違うんでしょうかね。どうやら、本当に恐ろしいことはもっと別のところにあったようです。



仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在

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