ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

ハンナ・アーレント事前学習会 3

今週も『ハンナ・アーレント』事前学習会を行いました。

第3回のテーマは「アーレント全体主義/公共性論」。
アーレントの著書で、今回の問題に関わるものは主に3つあります。

全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義

全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義

※全3巻
人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムアイヒマン』については次回学習会に回りますが、ではそれぞれの著書で、アーレントはどんなことを書いているのか。


■「全体主義」って何?(『全体主義の起源』)
ある集団(共同体)のなかで、一番上に立つ人の言うことをきくだけ、ということ。集団のことを「全体」と言い、その「全体」のなかにいる「個人」よりも重視(全体>個人)する考え、でしょうか。トップが「A」と言ったら、その集団の中にいる個人個人は、同じ「A」と言わねばならない、あるいは疑問も持たず「A」とならうようなことです。
アーレントの指す集団・全体とは「国家」のことで、「国家全体主義」ともいいます。
そして、「全体(国家)」と「個人」の間には「中間集団」があります。それは、学校や企業のこと。学校で「全体主義の作法」を学び、そして企業へとすすんでいくのです。これを「中間集団全体主義」といいます。
もちろん、いろんなレベルの集団に「全体主義」があります(家族だったら、父親が一番偉い「家父長制」とか)。
また、一神教の国の場合は「人は皆平等」という教えがありますが、これが日本や中国などの儒教の国では「年功序列(上下関係)」という教えで、たった一歳の違いで下の者を管理する、「上の言うことは絶対」という考えがさらにこの問題に絡んできます。


■「全体主義」にならないためには(『人間の条件』)
著書『人間の条件』でアーレントは、「共同体」と対比して、「公共性(公共空間、公共圏とも)」を考えます。
「共同体」は、上述したような「上の人が「A」と言ったら皆同じく「A」と言う」ものであるのに対して、「公共性」は、「共通の何か、関心事」(=「世界」)の載ったテーブルに、いろんな人が上下なしに囲み、それぞれの言葉で自由に話し合うこと。誰かが「A」と言ったら、「私は「B」だ」「僕は「5」だと思う」と個人個人の言葉、そして責任において発言ができる空間ということです。これには、誰でも、いつでも参加可能であることも条件です。(インターネットもそういう意味では公共空間といえそうですが、しかし匿名ゆえ、言いたい放題になってしまうという側面も孕んでいます)


アーレントは「人間としての営み」として、「活動」「仕事」「労働」の3つを挙げています。このなかの「活動」は、「「世界」にふれて、言葉を吐くこと」を言います。なおかつ、この場合は「言葉」=「政治」についてをいっています。「世界」の見え方が増えることが、世界を豊かにすると考えているのです。
そのために、「複数性(多様性)」を認めることが必要です。これは社会だけでなく、一人の人間の中もそうだ、とアーレントはいいます。
一人の人間を見るとき、共同体・集団では「what(何か)」(→所属・カテゴリ)、公共空間では「who(誰か)」(→何を考えているか、発言したか)を重要視している。一人の人間の一側面だけで判断することは、世界を豊かにすることにつながらないのです。


これを踏まえた上で、アーレントは「アイヒマン裁判」をどう捉えたのか? 次回(2/7)につづきます。