ぷらっとほーむの日記 ぷらほブログ

山形市・若者の居場所と学びの場づくりのNPO団体です

関係詞はひっくり返さない

スミーです。今日はフォーラムに、ヴァディム・イェンドレイコ監督『ドストエフスキーと愛に生きる』を観に行って来たの巻。


参加者は、ハギー&スミー、しげちゃん、あなごくん、かやちゃんです。

映画は、ウクライナ出身の84歳の翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーさんの、激動の時代に翻弄されながらも文学と共に歩んだ半生を追ったドキュメンタリーです。

スヴェトラーナさんは、ドイツを代表するロシア文学の翻訳家で、彼女自身の言葉で5頭の象と表現するドストエフスキーの5大長編(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)を翻訳しました。翻訳とは「憧れ」であり、究極の本質を求めることだと語るスヴェトラーナさんの日々の生活と、紡ぎだされる言葉の数々の美しさはとても印象に残りました。ハギーは、一日一日をより良く生きようとする彼女の姿勢に感銘をうけたと語ってくれました。

そして、この映画ではもう一方で彼女の人生に重くのしかかっているテーマも追求されています。映画で彼女は孫娘といっしょに65年ぶりに故郷ウクライナを訪れます。スターリン体制下の大粛清で父親を失い、ナチス・ドイツキエフ占領によりユダヤ人の幼なじみをバビ・ヤールの虐殺でなくすという経験をした彼女は、スターリングラードで戦況が変わりドイツ軍が撤退すると、ソ連にとっては政治犯の家族でありドイツ語通訳として敵国に加担した者として、他に選択肢はなかったにも関わらず裏切り者の烙印を押され、故郷ウクライナを去ることをよぎなくされました。ゲシュタポの将校やドイツ人の篤志家の力添えによって学業の道を開かれた彼女は、ヒトラーゲーテやシラーではない、民族と個人を結びつけることはわたしにはできない、と葛藤を交えて語ります。

しげちゃんは、以前ぷらほで学習会も行われた映画『ハンナ・アーレント』と共通するテーマであり、現在のウクライナ情勢にも依然として暗い影を落としている問題であると語ってくれました。また、それでもなお本を読むことで困難を乗り越えて生きて来た彼女の姿から、上巻で挫折している『罪と罰』の下巻を読むきっかけをもらったとも話してくれました。うん、頑張って!そして、あなごくんはといえば、歯痛をがまんして最後まで映画を観てくれました。つらかったね、でも負けないで!早く治療してね!



そして、映画上映後は、亀山郁夫先生の講演会キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!

ロシア文学界のオザケン(誰も言ってない)、亀山先生のご登場です!第一印象、お若い!スミーが高校生の時にNHKのテレビ『ロシア語会話』に出演されていた時と、なんだか印象が全然変わらない…。ロシアアヴァンギャルドやらスターリニズムやら、スミーがロシア文化の様々な側面に興味を持つようになった、かなりの部分が亀山郁夫先生のお導きによるもの。スミー的におすすめな亀山本は『甦るフレーブニコフ』(平凡社ライブラリー)と『磔のロシア』(岩波現代文庫)です。

そんな亀山先生の講演ですが、物静かな声の調子(大事)で淡々と、ところどころに差し挟まれる自虐ユーモアがツボでした。僕はマザコンでして、とか、大学で演劇をやったけど滑舌悪すぎて、とか、ロシア人にニワトリ並みの記憶力といわれた、とか、原卓也先生から卒論について誤字脱字が多いとの講評をいただいた…などなど。

それはさておき、ドストエフスキーの翻訳に関するお話はとても刺激的でした。亀山先生によれば、ドストエフスキーのロシア語ははっきり言って下手、なのだそうです。ほとんどの作品が口述筆記で、始終借金取りと締め切りに追われて文章を練る時間などほとんど無い状態でした。ロシア人が原文で読む時は、その下手なロシア語という壁を乗り越えなければならず、翻訳でドストエフスキーに接しているわたしたち日本人のようには作品に没入することができないそうです。映画のなかでスヴェトラーナさんが翻訳という行為を、洗濯して方向性を失った繊維をもとに戻すアイロンがけの作業に例えて、テキストとテキスタイルの類似性について語るシーンがありますが、それは暗にドストエフスキーのロシア語が雑然としているということをほのめかしているというご指摘がありました。翻訳って、奥が深いですね。

講演会の最後には、会場の皆さんでУра Карамазову! 「ウラー、カラマーゾフカラマーゾフ万歳)!」と叫んで終了となりました。とても良い思い出となりました。